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日々徒然に

日々徒然に

私と病気3

私と病気 3

 手術をして1ヶ月間は、右手で箸を持つことも出来たし、文字を書くことも出来た。退院して家に帰り、束の間の幸せを感じていた。ただ、言語の方は改善されなかったし、それまでは何ともなかった左手も物を持つと震えだした。

 1ヶ月経った頃から、また右手が震えだした。震えはだんだんひどくなり、手術前よりも激しくなった。病院に行くと、大量に薬を処方された。精神安定剤などが沢山含まれていたらしく、起きている時間が少なくなった。眠くて耐えられないのだ。

 しかし、私は受験生である。眠いながらも受験勉強に励んだ。一番苦しんだことは、それまで自由に書けていた左手も震えるようになったことだった。勿論、右手でも到底字など書ける筈もない。4週間に一度の割りで、特急に乗ってO大学病院に通った。

 8月頃だったと思うが、首が右側に傾き始めた。おそらく、右手の震えが肩まで達したためだろう。右側に傾くとともに、痛みも出てきた。近くの整形外科にも行ってみたが、よく分からないとのことだった。

 2月に入って、滑り止めに大阪の私立大学を受験した。滑り止めだからと思い、広島で地方試験を受けた。英語、国語の順番であったと思う。ほぼ満点の出来であった。後は午後の日本史だけだ。日本史は得意中の得意だった。

 いざ午後の試験が始まって、文字を書こうとすると鉛筆の先がグニャリとなって書けない。手が午前中で疲れてしまったのだろう。何とか名前と受験番号は書けた。しかし、後の答案は読めた物ではないだろう。解っていながら字が書けない苦しさを痛感した。

 呆然として試験会場を後にした。何キロあったか知らないが、広島駅まで歩いた。途中、何本も川があった。橋の上からのぞき込むと、水面が呼んでいるようだった。これはいけないと思い直して駅まで歩いた。道も知らないのにちゃんと広島駅の前に出ることが出来た。

 こんな滑り止めの大学の試験も駄目だなんて、私もお終いだと思った。それから1週間後、その大学から合格通知が来た。後に大学に入ってから人から聞いた話だが、英語の得点を重視したとのことだった。

 国立大学も受験したが、午後の数学の試験の時にコンパスを使う問題があった。一生懸命コンパスを当てようと思うのだが、当たらない。それで悪戦苦闘しているときに、試験官が後で来るようにと言ってきた。どうやら健康診断書に問題がある受験生を大学の方で直接診るらしかった。

 老人の医師と婦長らしい年配の看護婦がいた。字を書いてみろと言った。手は広島の時と同じく、グニャリとなってよく書けなかった。医師は黙ってみていたが、看護婦は、
「字が書けなきゃ、大学生活は無理!無理!」と突き放すように言った。
私は、こんな大学、頼まれても来るものかと思った。実際、合格通知は来なかったが。この時代、国公立の大学はまだ身体障害者には冷たかった。


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